集団は恐れなくてもいい

 就職活動していて大量の人数が参加するイベントでは自分本来の力を発揮できない時がある。

 大人数の集団は戦闘力がありそうですごいしっかりしてそうに見えるが、それは実は見てくれだけで水面下で何が起こっているかはわからないし、裏で悪いことをしてるかもしれない。

 大人数の集団は一見ゴジラ並みのモンスターに思えてゴジラに飲み込まれそうになるが、実は人間単位でゴジラを分解すると戦闘力は私と変わらないように思う。もしゴジラに遭遇し、会話を交わす機会があったとしても、私はゴジラの一部になる必要はなくゴジラ風の人間になる必要もない。長いものに巻かれろといい言葉があるが、それは自分の良さを消してまでするものではない。あくまで自分が外部のものに侵害されない範囲で影響を受けるべきだと思う。

 

 どんな集団に遭遇しても怖気づくことなく、自分らしく生きられる強さが欲しい。今のところその強さを培うには経験値が圧倒的に足りない。コロナで家という箱の中で生きてきた私は箱の外に慣れるのにはまだまだ訓練が必要だ。

毎月大量の血を流す女

 予定より早く生理がきた。なんとなく昨日は腰が重くて痛かったような気がして友達にカイロを借りた。

 生理期間は腰が常に握りつぶされてるくらい痛いし、普段なんとも思わない音楽で涙を流したりする。生理中は心も体もボロボロの状態になるのだ。

  

 話が変わるが、最近読んだブログが面白そうなテーマと文章だったのにエモいと思わせたいとわざと狙って書いてるような気がして嫌気がさして途中でやめた。最近は音楽やブログからエモを明らかに狙っているようなものが増えたと思う。その文章の中に他人に負の感情を抱いて貶す内容が書かれてあったが、私は他人に攻撃的な感情を抱く機会が少ないので周りに私もこう思われてたらどうしようという恐怖を抱いた。

 私が他人に負の感情をあまり抱かない理由は、多分周りにいた人が比較的穏やかだったからだと思う。それがわたしの良いところでもあり、生きててしんどい部分でもある。

 しんどいのは他人に素っ気ない態度を取られたりする時だ。怒られたら文句を言われたら熱がある時の視界が揺らぐくらいの衝撃を受けてその日の夜に瞼を閉じても忘れないくらいだ。

 

 穏やかに生きたいけど生理は人を変えるし、多分仕事も人を変えるから極力人と関わる機会を避けてモノと向き合う仕事に就きたい。

 

総じて言いたいのは生理が早く終わればいいな、と思う。

部屋を明るくすると鬱が治るのか

 今日部屋の電気を暗いものから明るいものに変えた。

 どれくらい暗かったかというと隠れ家カフェでメニューがギリギリ読めるレベルの暗さだ。電気を変えようと思ったきっかけはネットでうつと電球の明るさの関係性についての記事を読んだからだ。私は今俗に言う「就活鬱」というもので、絶望の森で遭難し、出口を探して歩いてる途中にいる。その中で最近眩しい光に照らされるという珍しい事が起こった。それは友達に会って元気をもらったということだ。元気をもらったことによって前々から家族に「部屋、暗くない?」と言われてきた部屋の電気をダンベルが内蔵されているかのような重い腰を上げて変えるエネルギーを得たのだ。

 

 ここからが本題で、部屋を明るくしたことによって気分が明るくなった気がした。具体的に行動にも現れた。一般的な家庭の人々は大晦日には掃除するようだがそれも億劫でサボっていたくらい、嫌いだった掃除をするという素晴らしい変化を私にもたらしてくれた。またスマホを見ると目が疲れ、頭が痛くなっていたがあまりそれを感じなくなった。あと最近サボっていたストレッチをやり、さらに気づいたらここ数年していなかったマッサージもしていた。

 

 結果⇨明るい電気に変えると行動したいという欲が湧き、鬱に効く

 

 と言うことがわかった。この記事を書いて分かったのは〜

のようなということを書かずに比喩表現使ってみたい。

 

 

 

自分の価値とは?

自分と同じ地に生まれ同じ親で同じ家庭環境で同じ学校で同じ教育を受けて同じことを経験してそこから同じことを感じる他の誰かはいない

 

地位とか権力とか財力とか容赦とか豊かさとかもらった愛の量とか映えとかSNSのフォロワーとかいいねの数とかで価値を決めるのではなくてそこに自分の価値がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

って考えたら自分を価値のない人間だと責めなくてもよくない?

可愛くいたいの先にあるもの

昔から外見コンプレックスだった。インスタグラムを見れば可愛い子の写真で溢れかえっているし、昔から友達に自分の顔の写真を勝手に撮られてSNSに載せられるのが心底嫌だった。整形しようかと考えたこともある。

しかし最近あまり外見を気にしなくなった。

そもそもなぜ私は可愛いと思われたいのか?という目的を考えると、それは人から愛されたいからだという結論に至った。それは必ずしも彼氏とか夫とかいう概念に限定しない。私は「人」から愛されたいのだ。

あと、コンプレックスって自分は嫌だけどそんなに周りから見たら気にならないと思うことが多い。

実際、私は外見で物凄くいじられてきたが、可愛くなれと直接人に言われたことはない。そもそも人から見て可愛くいなくてもいいのではないか?あわよくば自分が可愛いと思ってもらえればいいし、少なくても外見のことでとやかく言ってくるような人からどう思われたってどうでもいい。

 

 

よくよく考えると自分は親や友人から愛をもらっていると思う。そういう意味では私は幸せなのかもしれない。

 

 

 

 

 

幸せは気づくものって聞いたけど本当なんだなあ。

 

最近生きるのが楽になった理由

私は20歳のしがない大学生だ。コロナで家にいる時間で最近は自分の人生についてよく考える。その中で自分がこれからどう生きていきたいのか、今どのようなモットーを掲げて生きるのかという問いの答えが分かったように思う。

それは簡単に言えば自分のペースで生きることと自分の意見を尊重することだ。一見するとすごく簡単なことで、すぐに行動に移すことができると思うかもしれないが、これが意外と難しい。就職活動を例に挙げて考えると就職するとき周りの友達がインターンに行くとする。積極的に就職活動をしている時期に自分が全く就職活動をしていないとき、焦って自分の興味もない企業のインターンを申し込むこと、これは他人のペースで生きているということになる。自分のペースで生きていたら自分のタイミングで就職活動をするし、もしかしたらしないかもしれない。

 

今までの人生を振り返ると私は物心がついたころから高校生までずっと他人のために生きてきたといっても過言ではない。もともと敏感で感受性が高く、人の気持ちが感じ取りやすいため他人の気持ちに自分が動かされやすい。高校生までは情に訴えかけられたらすぐなんでも人のために行動してしまうYESマンだった。それに加えて親や友人などの周りにいる人の評価が絶対だと思っていて周りからの影響を受けやすく流されやすかった。高校生の時の友人からは性格がよくて「優しい子」とよく言われていた。私自身も自分のことが「優しい子」と呼ばれるくらいに他人のために行動をしているという自負があった。

しかし、ある日別の友人に「優しいとかじゃなくて人の要求を拒否できないだけだよ。別に優しくない。」とはっきり言われた。その時の衝撃は今も覚えている。じゃあ今まで私が他人にしてきたことは「優しさ」ではなくなんだったのか。そんなふうに思われていたのだったら周りからの「優しい子」という評価なんていらないから自分の好きなことだけすればいいのではないかと気づいた。

 

大学に入ってから色々な境遇の人の考えに触れる機会が増えて私の価値観が大きく変わり、自分の見える世界が一変した。周りの評価よりも自分の意思を尊重することを1番に考えることが大事と考え、周りの目を昔と比べて気にしなくなった。自分の意思に従って生きてみたら思っているより他人から文句を言われたり非難されることがなく、人に合わせずに自分の好きなように生きられるようになって楽になった。不思議だ。

 

つまり、何が言いたいのかというと他人軸で生きるのではなく自分軸で生きることで自分を周りの人や世間のしがらみから解放して、楽に生きることができるということだ。

 

 

 

 

なーんだ、人生って結構楽に生きれるじゃん。あーーーーー自分のための人生最高!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と思えるのも後何日だろう。どうせまた人生が嫌になるんだろう。思い通りにいかないことだって山ほどある。